日記とか旅とか。

正しい空

昨日までの陽気は嘘のように、札幌は初春に逆戻りしたような天気だった。
重たそうな雲が空を覆う。雨予報だったにも関わらず少ししか降らなかったのは、まだ幸いだったかもしれない。
泣きそうな寒空の下、小石を蹴っ飛ばして歩けないことに気づいた。社会人になってしまった今、仕事外でも常に「正しさ」が求められているような気がしている。少し窮屈かもしれない。
どこで誰が見ているか分からない。壁に耳あり障子にメアリー、とも言う。見えない視線の意識は増えたような気がする。イマジナリー視線。これが責任というものだろうか。

 

仕事終わりにカフェに寄った。温かいソイラテを注文し、読みかけの本を読み切ろうと決意した。

 

読み終えた時、自分には疲弊感しか残っていなかった。物語が空っぽだったわけではないのだが、物語の中の物語が空っぽで、いままで読んできた数百ページに落胆を覚えた。決して本を批判することではないのだが、無力感のような、ため息しか出てこないような、そんな「何とも言えない気持ち」になっていた。
ソイラテを啜る。今日のソイラテは、フォームが一段ときめ細かであった。
彼らの「正しさ」とは一体何なのだろう。物語に出てきた登場人物に思いをはせる。彼らなりの「正しさ」そのものが主観で、それを客観視できないことは知っている。

 

常に求められている正しさが習慣化すれば、特段意識しなくても問題ないのだと思う。それが一般的な行動に表出しなくても。
自分の「正しさ」が、世間一般でも正しいと思われているかは、また別問題である。だんだん正しさが分からなくなってくる。

 

自分のこんなところが近寄りがたい雰囲気を作り出すのだろうか?と自省している。中身もないような概念ばかりこねくり回す、そんなところに呆れ返った人がいるかもしれない。周囲からの視線を気にしないといった傍ら一貫性がないように見えるが、周囲が自分に向ける視線とか雰囲気は感じ取ってしまうものである。
自分と周囲に一線を引かれているような気がする。あまり良い事ではない。

 

カフェを出て、重空に向かって歩く。18時を過ぎてもまだ街は明るく、暦が夏に向かっていることを実感させる。でも今日は冷え込むから、ちゃんとお風呂に浸かろう。昨日までの夏はきっと幻だった。春はいつ来るのだろうか。

私はそう思って、イヤホンを耳に押しこんだ。