“好き”とモラトリアム
好きなものは、変わっていく。
自分が変わると、見える世界も変わる。そんなこと、自分がよくわかっている。
価値観も変われば、好きなご飯も変わるかもしれない。
自分は、変わっても良かったのだろうか。
今の生活は、鬱々としている方だと思う。
近所に買い物に行くか、北海道に行くか、くらい。あと池袋で献血をしてきたし、初詣は数日前に行った。そのくらい。
バイト先は緊急事態宣言を受けて休業中だ。収入が減ることは確実だろう。
家から出れば、お金が出ていく。支出をなるべく減らして生きている。エンジンをアイドル状態にしている感じ。省エネ生活。ただしエアコンはお友達。
会いに行きたい友達と会うことも憚られる。この僕に何ができるっていうんだ。
昨年12月に北海道神宮に行ったときに、おみくじを引いた。
年が開け、1月終わりに日枝神社に行った時にも、おみくじを引いた。
どちらも中吉で、似たようなことが書いてあった。
北海道神宮では、「初めは憂きことあれど、身を慎めば万事思いのままになる」。日枝神社では「一時の悲境にとらわれるな。心は常に朗らかに」。
つまり、今は耐え忍んで、ってことなんだろう。
ほんとにそうなのか。
きっとそうなんだろうな。
そうだよね。ずっと変わらない想いは、きっとない。変容に変容を重ねるもの。
変わらないものがある、と思っていたころが、少し恥ずかしい。
今は飛行機と野球が好きだ。でも、10年後、どうなっているかなんて分からない。写真を撮ることも、行わなくなってしまうかもしれない。
最近、「かぐや様は告らせたい」というアニメにハマった。
ラブコメなんだけど、登場人物がなんだかまぶしく見えた。
もっと早くから、好きだと思える人に出会っていたかった。
たらればの話だ。もし、もう少し輝いた生活ができてたら。
なんだか情けなくなってくる。自分の歩んできた道に、迷いを感じてしまう。
ここ最近、文章があまり書けなかったのは、そのせいもあるかもしれない。
あとGoogle Keepの同期が死んだ。スマホで編集できん。直らん。
理想と現実があって、現実を少しでも現実に近づけるために生活する、ということもあるだろう。
でもそれは過去には援用できない。過去の理想は、ただの引きずりだ。
前を向かなきゃいけないことは分かっている。理想も現実も、絶えず変化していくものだ。
たぶん。あまり自信がない。
自信のなさをカバーするために生きているの?
自分に、そう問いかける。
自分には輝かしい未来が待っていると思い込んでいる。でもそれは淡い期待だった、なんてこともあるのだろうか。
自分の思い通りにいかない。かぐや様でも見た展開だ。
先を読んで行動する。相手ならこう動くだろう、と予測して、用意をする。
でもそれ、疲れない?とは思ってしまう。
もう告っちゃえよ。しかしそんなことしたら、物語が終焉を迎えてしまう。感動のフィナーレはチャペルか?
縁がなかった。この一言ですべてを片付けることだってできる。
読みが甘かった。自分の行動を後になって評価するとき、よく使う。
それでいいのかな。
もっと何かできることはなかったか。最近はそればかり考えている。
自分の行動を顧みて、相手を観察して、こんなことを考えているかもしれない、と心をなるべく読む。完全には読めないけど。
自分の失策を他人のせいにしていないか。そんな“紳士的ではない”人だったのか。
結局たられば。自分の言動と行動を後から咀嚼して、この手を指せばよかった、なんてずっと考えている。
人間と話す機会が減ったから、心が読めなくなったのかな。
このあたりで文字数を気にしてしまった。とりとめがないし、長くなりそうだ。
人間と関わることが、そこまで得意じゃないのかもしれない。
一人の時間を大切にしがち。人と関わるときは、自分の意志があまりない。何食べたい?と聞かれて、ぱっと思い浮かぶものがない。自分はそういう人間だ。連れていかれた場所で、食べたいものを食べる。もちろん、そうじゃない時も稀にある。
でもそれってさ、何も考えていないように見えるんだよね。関心がない風に、さ。
そういう人間だ、って相手に知ってもらわないと、自分が良くない様に見られてしまう。だから、自分を知ってもらおうとオープンにしがちだ。自信のなさはここにも表れる。
自分をここまで追い詰めた存在は、自分だ。それ以外にいない。
他人のせいに、僕はできない。だって自分で歩いてきた道だから。
つまり、過去の失策はすべて自分のせいで、自分がキラキラした学園生活を送れなかったのも、自分のせいだって考えられる。もっと勉強していれば。もっと試験で点を取れていれば。こんな生活が送れていたかもしれない。体つきも変わっていたかもしれない。もっと友達が多かったかもしれない。
自分の人生評価は「たられば」と「過去の咀嚼」に支配されている。
こうやって書き連ねてきたけど、結局ずっと後ろを向いてるじゃん。前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか分からない。ただその場で地団駄を踏んでいるだけかもしれない。
自分を追い詰めて厭になって、自分の首を絞めていることにさえ気づかず、もがき苦しんでいる。
多分いま、こんな感じ。
そう。「憂きことあれど深く嘆き悲しまず身を慎んで」、「心は常に朗らかにして耐え」なければならない。今は静かに生きていなければならないのだ。
少し文章を寝かせた。
寝かせたところで、考えはなかなか変わらないものだ。
新しい場所に進むために、古いものを捨てる。 今日もあるものを捨てた。
その支配の手をなるべく緩めようと、支配からなるべく遠ざかろうとした方が、いいのかもしれない。
だからといって青春は返ってこないし、素晴らしきモラトリアムの1/4は潰された。これについては別ので書きたい。
この1年、特に夏場以降は自分の“好き”に邁進した時期だった。友達と会わない代わりに、いろんな場所に行った。吹っ切れて、今しかできないことをした。
でも結局、それって自分一人で成し遂げられてしまうものだ。誰かと一緒に見たい風景を、一緒に見ることが叶わない1年だった。
今のところ、“好き”に邁進したことに後悔はない。その“好き”が今後変わってしまったとしても、後悔はしないだろう。“好き”だから、その行動をしたのだから。
でも、“好き”をなるべく一人で行わなければならなかったことは、一生根に持つと思う。そのモラトリアムはもう元に戻らない。
それが一番、悲しい。