日記とか旅とか。

物書きを辞めようと思った

これは、卒論締め切り数日前の話だった。

電気を消しても寝付けなかった。珍しい事だった。
なぜか、ふっと頭に浮かんだ。

物書き、辞めようかな、って。

そのままツイートしようとしたけど、青いボタンを押す勇気が出なくて、結局下書きに押し込まれたままだ。

卒論は確かに行き詰っていた。筆はあまり進んでいなかった。
それ以上に、「文章書く人はナルシスト」という言葉が、ガスレンジの焦げのようにずっとこびりついていた。それを言われたのは2020年の初夏。“その場では”ポジティブな意味だった。

 

ある人に、「自己顕示欲が強くて子供っぽい」と言われた。
その日、ツイッタラーとしての「なりー」は死んだ。

ある人に、「書く文章が好きじゃない」と言われた。
その日、物書きとしての「なりー」は、一度死んだ。

どうすることも出来なかったのに、自分が分からなくなってしまった。
だから、自分の言葉を紡ぐことが、今でも怖い。

 

 

自分はナルシストになりきれない。
自分が文章を書くことは自己表現だが、そこに1mmの自信もない。

知っていると思ったことは、実は知らなかった、みたいな事がある。
知っていたのはうわべだけ。そのうわべを誇ることが、僕はできなくなった。

自分がどう思われても構わない。自分は自分の道を歩いている。
でも、歩いた自分の道を表現したものが、周囲にはどう見えているのかが分からない。
文章もそうだ。写真もそうだ。文化と言われるもの全般に言えることなんだと思う。
だから即席自己承認欲求実現ツールとして、SNSを使っているのかもしれない。noteだって一種のSNSだ。

noteをやっていた頃のコンセプトは、「自分が読みたいものを書く」だった。
でもそれは化けの皮で、結局「みんなが読みたそうなものを書く」なのかもしれない。

 


僕は、大人になることが早すぎたのかもしれない。

 

 

 

 

 

物書きとしては一度生き返ったつもりだ。だから2020年の夏頃にはいくつか原稿を書いたし、評価されるものもあった。
でも、それ以降はぜんぜん書けなかった。書こうとも思わなかった。大学の課題などが忙しかったことは確かだ。しかし、物書きから遠ざかろうとする自分が、そこにいた。

特段面白い文章を書けるわけでもない。“バズる”文章だって書いたことはない。物書きは完全な趣味であり、書き方を特に学んだわけではない。小説だってそうだ。「なんとなく」書けるようになってきた。上達の過程は明文化しようがない。「なんとなく」だから。
「なんとなく」できるようになったことでも、本当に「できるようになった」のかは、自分じゃ分からない。だから小説を書いたら批評会をするし、ブログにはコメント欄がある。

要は感想が欲しいのだと思う。自分の文章が「読まさる(注:自然と行われる、の意)」文章なのか、全く分からない。インプレッションを確認しても、「読まれた」ということしか分からない。noteの「いいね」もほとんど意味を為していない。フォロワー以外からの「いいね」は、自分の記事に誘導するためのツールに過ぎない。

結局、自分は「他人にどう思われるか」が気になって仕方がない人間なのかもしれない。普段はそんな素振りも見せず、我が道を行くように見えるかもしれないけど、それはただの強がり。
そういう考え方は、一般にはあまり評価されていない様に思える。「他人の目を気にする生き方は望ましくない」というものだ。確かに普段の生活では、他人の視線はあまり気にしないようにしている。そこに神経を尖らせて、自分が死んでしまった経験を持つからだ。

しかし、物書きとか、写真に至っては別だ。反応が欲しいし、感想が欲しい。「インスタ見てるよ~」って言ってくれる友人も、ぜんぜん「いいね」してくれない。

芸術は他者からの反応が生命線。

これが、自己顕示欲に見えてしまう。

 

自分の投稿した写真は「いいね」するに値しない、書いた文章はシェアするまでもない駄文。そう考えてしまう。きっとそうなのだ。

それに、このことが分からないヒトは、この文章を読むに至らない。

 

自分は悲観的で、都合のいい人間だ。
自分のことは、自分が一番わからない。

自分の思ったことや経験を文章に吐き出すことは、それなりに労力の要る作業だ。起きた事象や自分の考えていることを、伝わるように書けているか。それができるようになるには、何回も書かなければならない。もちろん、自分がその域に達していないこともよく分かっている。「文章書けるの羨ましい」と言ってくる人は、その裏にある努力を知らない。
写真も同様。撮っては評価し、撮っては評価し、の繰り返し。構図を考え、シャッターを切り、レタッチをする。写真のための旅、なんてことも経験した。1年9か月で48000シャッターを切った。フィルムは何本消費しただろう。「写真撮れるの羨ましい」と言う人は、その裏にある努力を知らない。

でも、努力なんて知らなくても、優れた文化は簡単に享受できる。面白い文章を誰かが書いてくれるから。素敵な写真を誰かが撮ってくれるから。

 

ここまで書いて、自分にとっての幸せはなんだろう、と考えた。

ヘンリー・ダーガーは、60年間かけて1本の超大作を書いた。彼は創作することが幸せだったのだろうか。

自分は創作にそこまでの熱意がない。言ってしまえばそう。自分が考えていることを吐き出したり、自分が体験したことを書き記したい。小説や詩だって書きたいけど。

自分の幸せの一部は芸術にあるのだろう。でも、全てではない。

 

書いても意味がないのなら、書かない方がマシだ。
「言われたこと」に傷ついている時点で、他者からの目は気になっている。そもそもそうじゃん、自分。
趣味で楽しめない時点で、それは趣味ではないと思う。その点では、写真は楽しいから、胸を張って趣味だと言える。

 

じゃあ、物書きは?

 

 

f:id:narry_22:20210211231147j:plain

去年の6月